本当に大切なことは誰にも教えたくない

10年ほど前からメンタルを傷つけて病んで悩んで、自分なりに導き出した結論。たまに日常。

人の考え方を真っ向から否定あるいは抹殺できない人

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 日本人は温厚で、争いごとは避けたい人が多い印象なので、人の考え方や意見を断固として否定したことのある人はあまりいないのではないかと思う。例えば子育ての方針だとか、人生設計だとかは面と向かって否定したり出来るようなものではないと感じる人が多いはずだ。

 でも人は時に絶対に認めることのできない考えを持った人物に出会ってしまう。 

 

 こういうのは極端な状態を考えるのが分かりやすいので、ここでは

「親しい友人が、人殺しはOKという考えを持っている」

場合を考えてみる。道徳の授業の記憶は定かではないので、教育現場でどう教えてもらったかは置いといて、よくいう「色んな考えを持った人の存在が認められる」流れに乗って考えたとき、「友人」が殺人はokという考え方を持ったまま生きていくことになる。最近の論調ではそういう絶対的に考え方を否定するような教育は為されていないのではないか、と思う。しかしこれは、明らかに程度はどうあれ公共の福祉に反する可能性が高い。実行なんて考えたくもない。だから、俺がこういう考え方を持っている人間に出会ってしまったら、相手が持っている考え方や意見の存在を否定するように、話を組み立てて、この世からその考え方を抹殺していくことが必要になる。

 

 次に、例えばそんな堅苦しく考える必要も無い温和なケースを考える。

「親しい友人が、草野球で子ども相手に初球スプリットから入ることを信念にやっている」

としたら、半笑いくらいで「やめとけや(笑)」で済むと思う。

 

 強度はどうあれ、俺は友人の意見を否定している。間違っているということを確かに表明しているという点では共通した振舞をみせている。しかし、大きく違うのは、その意見がこの世界に存在していることを認めているかと言う点だ。俺は、殺人を容認するという考えそのものの存在を絶対に拒絶するし、もしもったままその友人が生きようとするならば、俺は彼を社会的に抹殺するために何らかの強硬手段を辞さない。もちろん1人だけの力と言うわけではなく、権力にたよることだってある。

 

 ここで、間違った考え方をどんな基準で判断していくかだが、例えば俺が考えるときなんかは、やはり公共の福祉のためになるか、危険を及ぼす可能性があるかどうか、について考える。今の世の中色んなモラルがあって、色んな職業があって、そこには色んなポリシーを持った人たちがいて、必ずぶつかるときが一度くらいはあると思う。まずはこの世に存在することを許せる考え方なのか、それから相手の意見を捻じ伏せるか、一生気を許さないで過ごしていくか、話し合いでなんとか分かり合うかを決めればいい。

 

 最近いつ人の意見を否定したかな。メンヘラをバカにされたときだったかな。

サイエンスに関する議論なら使いやすいんだけれど、ポリシーについてハッキリ言えるかな。

今の日本の道徳教育ってこういう否定したり、拒絶したりする練習はしているのかな。

気になるなあ。

 

 まあ……、

「君のその考え方は間違っているよ」