本当に大切なことは誰にも教えたくない

10年ほど前からメンタルを傷つけて病んで悩んで、自分なりに導き出した結論。たまに日常。

人間嫌い 序:幼馴染Y

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夕方の喫茶店

 いつもの喫茶店。

    初めは苦手だったコーヒーの苦さとか匂いにも慣れたわけだが、最近はエスプレッソにハマっている同席相手の思考回路は未だ解き明かすまでには至っていない。

「おまえの人間嫌い、どうにかならんのか」

「私が人間なんていう進化の袋小路に入った生き物を好きになるわけがないでしょう?」

相変わらずの無邪気でキラッキラな笑顔で物事を突き放す言い方をする。しかもだいたい正しいので悔しいが、俺も負けずに

「でもお母さんとかは大好きなわけだし、矛盾してると思わない?」 

と喰いさがる。

「よく考えてください、好きと嫌いは矛盾しません。それにあなたこそ、人間大嫌いなくせによく人のこと言いますね」

「俺は、人間嫌いなんかじゃないよ。Yみたいに怖い顔しないもん」

    今は自信持って言えないけどさ、昔は本当にそうだったのよ。

「まあ、怖い顔しちゃうのは仕方ないですよ。嫌悪感は頭ではなく生理的な反応の問題ですし」

 まあ確かに間違ってはいない。

「じゃあお母さんや俺に向ける笑顔は生理的な反応からなのか?」

「うーん……あなた、私が言ってる『人間嫌いの意味』、わかってますか?」

「人間嫌いの意味.......?」

 

人間嫌いの意味

 確かに人はどの段階で、何を持って人を嫌うのか。全てが直感的なものではないはず。

 

 例えば第一心象では好き嫌いが五分五分の状態だったとして、一緒の時間を重ねていく内に負の印象の割合が多くなったときに嫌いになるのか? では正負の印象の増減に関わる項目はどのようにして決定されるのか。恐らくそれは生きてきた内で自然に決まっていった、人として大事に思うことがポイントだ。

 

 挨拶に重きを置く人は、挨拶が出来ない人に対して共有する時間と共に負の感情が増していき、やがて明確に「嫌い」になる。しかし、挨拶を重きを置く人にとって自然に挨拶が出来ることなんて当たり前なので、正の感情を維持できても増やしていくのは難しいのが寂しい所だ。

 つまり、人間嫌いというのは自分を含めた知りうる限りの人間たちが、重きを置いている項目に対して負に働く行動しか取らない、もしくは取れないということだ。これは非常に悲しいことで、ただ周りの人間が気に食わないとか、そんな自己中心的な感情では無いんだ。

 

 自分にとって当たり前を満たす人物が自分の世界にはいない。

    これはこの世にある最も強い孤独感の内の一つだと思う。

    それが単純な二元論的な言い方をした時には、嫌いと言うしかないからYは自身を『人間嫌い』だと称するわけだ。

 

10年以上掛かってしまったよ

「少しはわかってくれましたか?」

コーヒーが冷めない程度の時間だけ、思考を巡らせた俺に優しい笑顔を向けるYの寂しさ。俺の存在が少しでも軽減できてればよかったんだけど、果たしてどうだったのだろうか。

    すまない、ここまで考えを構築するのに10年以上掛かってしまったよ。そりゃ、嫌いになるよな、人間なんて。

 

    じゃあ、今の俺の人間嫌いはどうなんだ?