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本当に大切なことは誰にも教えたくない

10年ほど前からメンタルを傷つけて病んで悩んで、自分なりに導き出した結論。たまに日常。

社会モデルの障害者について

考え
    身体障害、精神障害知的障害発達障害……。社会では多くの人が個人の特徴によって感じる障壁から、行動の制限や社会的な不利を強いられながら生きている。しかし、今の社会で言われる障害者は、全て医学的なアプローチでしか定義できていない。
    障害者の定義には、参加の制限や活動に制約がある人も含まれる。活動とは仕事や行動の意味だ。だからよく考えれば、誰だって一瞬のうちに障害者になり得る。
    例えとして極端な状況を挙げてみる。あなたが100階建マンションの100階に住んでいるとしよう。ある日仕事から帰ってくると、エレベーターが故障していたとしたら、あなたは自力で自分の家に帰れますか? 修理が終わるまで毎日自力で地上100階まで上がるのは余りに非現実的だし、実行すれば相当量の時間と体力を浪費することになる。あなたは自分の家に帰るという暮らしの中でいたって普遍的な行動に制約を受ける。その制約を感じた時点で、障害者と扱われるのが社会的なモデルとしての障害者だ。
    つまり、医学的に診断された個人の機能や能力ではなく、社会が作る障壁によって障害者を定義する。社会の一員に障壁を感じさせるのは、その本人の問題ではなく、社会が未熟だということだ。    
    社会が民主主義であるなら、その権利に応え、障害者が感じる社会的障壁を取り除かなければならない。これは合理的配慮と呼ばれるらしい。社会が充分に成熟していれば、全ての人が行動の制約や参加の制限を感じることはない。完全に取り去ることは出来なくとも、負担を感じさせない状況には持ってこれるはずだ。

    俺は障害者という言葉の意味を、社会モデルが基本的なものにしたい。生活に全く障壁を感じていないのに、診断されたから障害者として扱われるのはおかしい。
    いま、社会モデルを後ろ盾にすると、俺たちのような心を病んだ人にとって、この社会は余りに未熟なものに見える。だって、俺たちは常に強い障壁を感じているもん。ただ、合理的配慮を獲得するためには、誰かが叫ばなければならない。俺にその役を演じる器量があれば良いけど。