本当に大切なことは誰にも教えたくない

10年ほど前からメンタルを傷つけて病んで悩んで、自分なりに導き出した結論。たまに日常。

全ての人に感謝しています

生まれてから四半世紀も経ったらしい。

めでたいね。

25年間沢山の人に支えられてここまで来ました。
どんなに歪でも、どんなに希薄でも、俺の存在を認めてくれる全ての人に感謝しています。

 

 

誕生日は毎年祝日で休みなんだけど、近年は研究活動、主に実験をして過ごすことが多かった。それでも何人かには一言メッセージを貰ったりして、また新しい一年を頑張って過ごす元気が蓄えられる。

 

でも、今年は何もなかったね。

 

 

夕方、父親が出かける準備をしながら

「寿司買ってくるね」

あ、もしかして、俺の誕生祝いかな?

俺が寿司好きなことはみんな知ってーーー。

「クーポン券もらったから」

「うん……わかった」

そっか。

自惚れだった。

そりゃ俺の為に寿司なんて買わないよね、クーポン券もらったから寿司なんだよね。

 

夜、寿司を食べたけど、味がしなかった。

この世で一番惨めだった。

 

 

愛とか友情とかを見下して、踏み潰して、唾ぶっかけてた頃は、心が冷え切ってて気付かなかった。今もあまり自覚してないけど、俺って実は誕生日は祝って欲しい人だったんだな。

 

だっさ。

 

でも、人らしくなったなと思う。

また来年出直すさ。

「優しい」ではなく「易しい」では

 僕は一部の人間から「優しい」という評価を頂く。しかし、最近俺が言われる場合に限っては「優しい」ではなく「易しい」という表現の方が正しいのではないかと思い始めた。

 僕の思考は非常にシンプルに構築されているので、書き言葉も話し言葉も予測可能な展開だと思う。だから、精神的にもストレスが小さくて優しく感じるんだろうと思う。だけど、その本質はイージーという意味の「易しい」なんだよ。

 要はチョロい男ということだ。

 上の事が誤認だった場合、僕の行動は僕自身に易しいものではない。何故なら、事実はどうあれ、真実として僕は人に優しくしようとか、優しくしたという自覚が全くないからだ。僕だってどういう事が世間的に優しい事と捉えられる行動なのかくらい、生きてきた中で自然と心得てきたつもりだ。だから、僕の行動や言動を優しいと感じたことがあるとすれば、それは僕にとって「優しさ」ではなく、いつも通り「正しさ」を行使したに過ぎないと理解してほしい。

 

 どうしてこんな余計なことを考えているかと言うと、「優しい」という評価をもらっても微塵も嬉しくない自分が嫌いだからだ。大概の場合、褒めれらているのだから素直に喜べば良いものを、喜ぶよりも、自分が思っていることと異なる評価をもらってしまって寧ろ戸惑いの方が大きいから困った。

 

 僕が一番言われて嬉しい評価は「いい人」なので、いつか自分の「正しさ」がそこに繋がる日が来ればいいなと思う。

 

 現状の僕自身に優しくなくて、僕自身に易しくない僕いやだわ。